Essay エッセー
日々感じたこと思ったことをそこはかとなく日記に書き記して発信していきます。

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13.02.13. 家族旅行 中国西安

春節の休みを利用して2/9-2/11の2泊3日で西安に家族で旅行に行ってきました。

西安市は、陝西省(せんせいしょう)の省都で、人口約840万人を誇り、日本で言えば
古都京都といったところです。昔から絹の産地としても有名で、今でも桑の木が多く
東の郊外には紡績工場が多く集積しているそうです。
北には、渭水(いすい)という川が流れ、流域の渭水盆地では小麦や綿の栽培が盛んで
南には秦嶺(しんれい)山脈があり、そこでは翡翠(ひすい)が採れるそうです。
西安は、中国全土を見渡した時、ほぼ中央に位置し、北に物を船で運べる川があり、
南に玉が採れる山があり、都を置き中国を統一するには格好の場所だったのではないか
と思います。また、中国の伝統的な自然観に「風水」があり、実際に考えて都が此の地
に置かれたかは分かりませんが、上記の通り、地勢、方位、地脈、陰陽の気を考えた時
に最適に場所であったのではないかと思います。
また、西安は嘗て長安とも言われていた時代があったそうですが、以下Wikipediaより。
「漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった.1369年(洪武2年)明朝は
 元朝の奉元路を廃止し西安府を設置、これが西安の名称の初見で明末の李自成の反乱に
 際しては、西安に入城した李自成は一時長安と改称したが、清朝により再び西安と改称
 され中華民国まで沿襲された。」
 

一日目に見学した場所は次の1カ所のみ。何故なら、2月9日は旧暦で言う大晦日で
殆どのお店が閉まっており、観光施設も例外ではない状況でした。鐘楼もガイドさん
曰く行ってみないと分からないといった状況で、バスの中から鐘楼の建物の中に
人がいるのを確認してから登ったほどです。

<鐘楼(しょうろう) Bell Tower>

 市街の中心部に位置し、平時には鐘を打って時刻を知らせる役割を担い、
 戦時には、物見台や司令部になることもあった場所です。
 明代の1384年に創建され、1582年に現在の場所に移されたそうです。
 また、鐘楼のすぐ隣に、鼓楼(Drum Tower)という建物があり、そこには字の如く
 太鼓がいくつか置いてあり、嘗てその太鼓の音で戦時に兵を鼓舞したと言われて
 います。

<餃子の名店 徳発長>

 西安は、餃子が有名で、夕食には十数種類程の餃子が出てきました。
 鳥の形をした餃子、帽子の形をした餃子を食べると昇格・昇進すると言われ、
 お金の形をしている餃子を食べるとお金持ちになると言われているようです。
 西安は、雨があまり降らない為、稲作には適さず、小麦の栽培が盛んになり、
 結果として餃子料理が有名になり、餃子の種類でも全部で180種類程あると
 言われてるそうです。(蛇足ですが、小麦で出来る面類も主食のようで、
 日本のきしめんのように太麺でびゃんびゃん面というものがあります。
 「びゃん」という漢字は漢字の中で一番字画が多い?と言われていて
 とても複雑な漢字です)
 最後に、出てきたのは餃子のスープ。スープの中には小さな小さな餃子が
 入っていて、選んだ器に何個餃子が入っていたかでその人の将来が分かる
 といった少しエンターテイメントがありました。(自分は確か2つ入っていて
 意味は???忘れましたが)。仮に0個であっても、それは「何も悩みがない」
 といったことを意味するそうです。


二日目は、昨日行けなかった場所も含めて回ったので少し慌ただしいが、充実
した一日でした。

<兵馬俑>

 8時半にホテルを出発して、途中で濃霧に襲われました。
 近くに川がある影響らしいのですが、数メートル先が見えない。
 恐らく、戦国時代には、この霧を上手く使って攻め行ったりしたのだあろう。
 孫子の兵法でも、時を見極め、地形を読み解くことが勝敗を大きく分ける
 ことになるので、天の時、地の利をうまく利用することが説かれているのも
 ここ中国の壮大な地形を見ると納得できます。
  
 さて、兵馬俑に到着したのは9時半頃。新年初日ということもあって、幸い
 人はそれほど多くはありませんでした。バスを降り、5元のカートに乗って
 入り口の料金所まで5分程度。

 兵馬俑は博物館として、屋根もあり近づいて見れるようになっていました。
 先ずは、そのスケールの大きさに圧倒されました。日本では埴輪が古墳と
 一緒に発見されていたと思いますが、此処の兵士や馬は等身大(強く見せる為
 等身大より少し大きめで170~180cm程らしい)はあり、1200体程が既に発掘
 されており、全部で約8000体近くあると言われています。
 一体一体のポーズや顔付きが異なっており、当時は様々な民族の混合部隊で
 構成されていたことを物語っており、また、今は色味が風化していますが、
 甲冑には赤や肌にはベージュ色の塗料が塗られていたそうです。
 また兵士の目は皆一重になっているそうで、それは始皇帝が一重であったから
 と言われているそうです。履いている靴の先は少し上向きになっていて、靴に
 付いた地面の雨水をうまく飛ばす為の工夫がされていたと言われています。
 中には冠を付けた兵隊がいて、位が高く、殆どの兵隊は木の柄でできた槍を
 持っていた(だから今は腐って柄の部分はなく、先端の槍の部分だけ残っている)
 のに対して、位の高い兵隊は青銅の剣を持っていたようです。
 また、馬の後ろに馬車があったそうですが、これも木製であった為、腐って
 今は跡形もなくなっており、馬の後ろに何もないスペースがあるのはそういった
 事情からのようです。

 兵馬俑は、一号抗、二号抗、三号抗と全部で三つの抗からなり、一号抗の規模
 が一番大きく、今も後部は現在進行形で採掘されているそうです。一号抗の
 後ろに整然と並べなれた兵隊や馬は、海外の美術館に輸送される予定で(ガイド
 さん曰く)パスポート待ち?状態だそうです。また、後方で不完全な出土品を
 修理もしているとの事でした。中でも三号抗だけは、他の抗とは少し毛色が違い
 兵隊がお互い向き合って並び、手には剣を持たず、腰の前で手を重ねて、
 これは何かの儀式を行っている場面との事でした。但し、三号抗作成の途中で
 始皇帝が亡くなった為、作成途中で未完のまま埋められたとされています。
 
 こういった遺跡に触れた時に考えなければいけない事は、何故この人はこの
 ようなものを作ったのか?という事だと思いますが、兵馬俑は始皇帝陵を
 守るために制作されたと言われています。ここまでスケールの大きなもの
 を作るには相当な時間と人と労力を要したに違いないと思います。
 それは、秦の始皇帝の権力の強さを物語っていると同時に、中国では当時
 死後は別な世界にいくと考えられていた為、別な世界に行っても頑強な兵隊
 で守らせなければならない程の行為を現世で行った、その恐怖心の表出として
 兵馬俑が出来たのではないかと思います。
 中国の歴史はあまり詳しくありませんが、次の<秦陵地宮>で記載した通り
 秦の始皇帝は天下を統一し、そして物だけでなく思想までも統一しようとした為、
 相当な人々の反感をかった事は想像に難くないと思います。

 兵馬俑の見学が終わったところに、お土産屋がありそこには兵馬俑を偶然にも
 発見した農家のヤン?さんが座っており、今は名誉副館長だそうです。
 その方は当時、干ばつがひどい為に井戸を掘っていたら偶然にも発見したそうで
 すが、一号抗の真ん中右程に少し大きな穴が空いており、過去に亡くなった人を
 埋葬するために掘った人がいたそうですが、兵馬俑の存在には気が付かなかった
 そうです。ヤンさんの幸運にあやかる為握手させて頂きました。 

つづく 
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中国到着

本日より、中国に到着しました。
これから頑張って日記を書いていきます。
よろしく

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